百恵ちゃんさよならコンサート
世代どころでなくてさ、こちらが正直生まれる前にサヨナラされてしまっているのだが恐らく母親の腹の中で聴いていたのだろう。家にレコードひとつ無かったのだけれどまだ地方の中核都市と言えど近所にTSUTAYAが普及してないくらいの時代に、街の野良レンタルCD屋に行って偽物レーベルから出てるオムニバスアルバムなんかを必死に借りては聴いたりなんならCD-Rとかに焼いてやっぱデジタル世代やベースとか言いながら学生時代聴きまくってた(違法です)。そしたらなんか時代が僕に追いついて来たというかお互い周回遅れが年齢算でたまに倍数になるみたいに重なり合ってMOMOE PREMIUMなる全曲カバーとかが出て、それを買うには余りにお財布が寂しかったのでWinMXでcueファイル落として割れCD革命で復元したりしてた(マジ違法です)。そう言うお付き合いで百恵ちゃんとはマトモなお付き合いではなく、これっきりこれっきり言われそうだったけどなんとか貴方が望むなら私何をされてもいいのとストーキングして今に至るのである。そんな中、まさかNHKがBS4Kで百恵ちゃんのさよならコンサートやってて、と言うか正直に言うとやるの知っててまだかまだかと正座しながら待ってて、ホラ4Kってリアルタイムで観ると暗いじゃないですか。だからわざわざレコーダーに録画したものを1分遅れくらいでややリアルタイムで観てたんだけどやっぱ鼻血出る。当時女子人気が多かったみたいってのもなんか分かるよちょっと宝塚の男組的なそう言う感じって言うか。声低いんだよね。でもなんかたくさんが詰まってるしこのオーラはマジヤバい。百恵ちゃんが青春について語っているので少し耳を傾けて聞いてみたんだけど、昔みたいにパソコンで書いてないから書き起こし出来ないや。スピードが失われた僕の青春。最後にたった1人になったときに全然寂しさが違うんですだってさ。夜の俺かよ。
たまに語りたくなるが既に語りすぎている
あまりにお金が僕を支配する時代は終わり、最近は距離を置いて暮らしていける気もするが、それと引き換えにかけがえのない若さが風のように過ぎ去っていった。うなされていたあの熱気や、何にだってなれる気がしたあの酩酊は、一瞬のように今は消えたウェブサイトとともに静かに眠ってしまったのだ。ログを漁ったって出て来やしない。お金は僕を支配しきれなくなったけど、支配される恐怖はまだ覚えている。ただ大人を振舞えるようになっただけ。気づけば周りは運や実力を振りかざして違う街に出かけようとしていて、アルバムを眺めているうちに僕は写真の中の僕のように小さくなってしまった。たまにやる悪ふざけや小さなクスクス話のおかげで自分の形を捉えられているのだけど、もう何にもなれないんだろうか。そろそろ人生の半分に差し掛かっていて、ゴールが見えている気にもなっている。気になっていると言ったがこのまま宝くじでもあたらない限りなにも変わらないのだ。落ち着くところまで僕は落ち着いてしまった。
そう思っていたら眠れなくなって、天井を見ていたらいてもたってもいられなくなった。あの時の僕は背中を押す衝動で前に進んでいたけれど、それは若さ特有の能動的な衝動だった。今からはその衝動から探さねばならない。でも、そういう思考を積み重ねたところで、ただ惰性で消耗している昼間の自分と変わらないのではないか。そう考えていること自体が自分を呪縛で閉じ込めているのではないのかと思ったときに少し外から自分を感じることができたのかもしれない。
自分に満足せずにこの40年を過ごして生きてきたのだ。まず自分を肯定することから初めてもいいのかもしれない。そう思って久しぶりに10年前に買ってきたノートパソコンを開いてみたら懐かしい匂いがした。毎日触るセキュリティで縛られた会社のそれとはまったく違う、白いキャンパスのような。そう思って書き始めているのがすでにあのころのようで楽しい。時間は限られているが、これからはここからまた初めて見たいと思った。